■交通児童遊園■
■交通児童遊園駐車場■
■「鎧掛けの松」案内板■
以前この近くに池があり長久手合戦の時、諸軍勢が手で水をすくって飲んだといわれ、また血に染まった刀や槍を洗ったともいわれている。昔から4月9日(合戦の日)ごろには水が赤く変わり、血の池と称されていたが現在この池は形をとどめていない。この池で刀や槍を洗う際に、武将が鎧を掛けたといわれる「鎧掛けの松」の二代目が、松くい虫の被害に遭って昭和55年2月6日樹齢80年の生命を絶った、このため、昭和57年7月1日三代目鎧掛けの松として植栽した。(現在は4代目)長久手町教育委員会
■鎧掛けの松■
■血の池のいわれ■
天正12年4月9日の長久手合戦では、この一帯が主戦場となり付近の御馬立山に布陣した家康軍と秀吉方の池田勝入、池田元助、森長可などの武将が対峙し、死闘を繰り返した結果秀吉方の三将が討死しました。血の池は、家康方の渡辺半蔵などの武将が、血槍や刀剣を洗ったことからその呼び名がついたと言われています。毎年合戦が行われた頃になると池の水が血の色に赤く染まって漂ったと言い伝えられており、名松鎧掛けの松とともに永く人々の心に語り継がれてきました。昭和60年3月長久手町
■血の池公園広場■
■血の池公園散歩道■